先日、政府から、新型コロナウィルスの分類を5月8日から5類に変更するという発表がありました。

世の中の多くの人の本音としては、今のコロナウィルスの弱毒化を考えると、今更だと感じている人が大半だと思いますが、とりあえず、政府がこうして、声明を出したことで、自己責任の範囲内で、かなり、自由に行動ができるようになったことは、ポジティブなことだと思います。

一応、マスクの着用についても、自己の判断に任せるということなので、個人的には、冬の終わるころには、マスクを外した生活をするつもりですが、世の中的には、マスク無し生活が普通になるのは、暑くなる梅雨が明けるころになるような気がします。

元々、欧米に比べて、アジアは、文化的にマスクには抵抗がないのが、ここまで、マスクをするのが当たり前という生活を強いられる要因の一つですが、人に合わせないといけないと考える人が多いことは、さらに、大きいように思います。

個人的には、ほとんど、図書館や映画館など、声を出さないような場所では、マスクをしないことも多いのですが、これからは、自分の頭で考えて行動をすることが求められるので、そういうことが苦手な人には、いい機会になると思います。

日本は、本当に、無駄だと思えるルールが多いのですが、それさえ守っていれば、何をしても大丈夫だという社会性の乏しい人が増えているのが要因だと思います。

最近は、急激にAIが進歩していて、公共のルール作りにも、データとAIによるものが主体になっていくと思われるので、無駄なルールは少なくなっていくことも期待できますが、それと同時に、ある程度、人との信頼感も取り戻す必要があると思います。

自分自身は、田舎育ちなので、畑でとれた野菜など、近所の人や親せき同士で贈りあう習慣があったので、人に何かされたら、お返しをするというのが当たり前だという感覚があるのですが、そういう文化を経験していない人にとっては、ルールを守るか守らないのかというのが、大事だということなのかも知れません。

本当に、小さなコミュニティの中で育ったので、顔見知りの人がほとんどで、学校帰りに、友達のお父さんやお母さんが車で通ると、家まで乗せてもらったりと、今の世の中では考えられないような経験もしてきました。

昭和をいい時代だと感じるのは、ある程度、コミュニティが機能していて、お互い様という意識の中で、人々が生活していたことが大きかったからだと思います。

今の時代に、昔のようなコミュニティを作るのは、難しいとは思いますが、身近な存在に、気兼ねなく付き合える友人がいるのといないのでは大きな違いがあります。

インターネットの初期のころは、見知らぬ人とつながれることが、革命的なことであり、多くの人がそのユートピア的な世界に期待したものですが、分断の深まる現在の状況を見ると、それに期待している人は、ほとんど、いないのが現実だと思います。

どれだけ、ネットでつながって、『いいね!』をし合っても、相手の本音は、実際のところわからないものだし、逆に、本音を隠して、四六時中人とつながっていることに、内心、うんざりしている人は多いと思います。

自分の本心を話すのは、相手との信頼関係が大切になりますが、それには、自分自身が、精神的に、自立していていることが条件になります。

最近の若者は、他者を傷つけるのも、傷つけられるのも、極度に恐れる傾向がありますが、自分と他人の意見や価値観が違うのは当然なことなので、それを自覚することなしに、コミュニケーションを図ろうとするので、うわべの関係性に終始して、疲れるという悪循環に陥っているように思います。

個人的に、自己肯定感という言葉は、あまり、意味のあるものだと思わないのですが、それは、アメリカの社会を見てもわかるように、自己肯定感という言葉で利己的な自分を肯定して、他者を傷つけても構わないというふるまいにもつながってしまうからです。

自分は、自己肯定感が低くて、自信がないという人ほど、他者との関係性を築くのが難しいと感じているかも知れませんが、自己肯定感を上げるのではなく、今の自分を受け入れるという方法をとることで、精神的な安定も得られて、他者との関係性も築きやすくなります。

自己受容という言葉は、精神科用語の一つですが、自分を客観的に見て、自分の性格なり、行動なりをコントロールできるようになると、周りに依存することなく、自分を保てるようになるので、自分にとって、必要な人間とそうでない人間の選別もできるようになります。

やたらと人に要求だけして、自分は、何もお返しをしないという人は、その人自体に悪気はないのかも知れませんが、長く付き合うべき相手ではないのは、理解できると思います。

そういう人を冷静に観察してみると、劣等感が強く、他者に認められたいという願望が強いというのがわかります。

事故承認欲求は、今の時代のはやり病のようなものですが、SNSにより、インスタントにその願望が満たされるようになった世の中に合って、それは、一種の依存症のようなものだという認識がされるべきだと思います。

日本は、昔から、本音と建て前の文化が強い国でしたが、最近は、あまりにも、人との関係性が遠くなってしまったせいで、建て前の部分が大きくなりすぎているように思います。

それに対する処方箋のようなものは、今のところ、ないのが現状ですが、AIがさらに進化することで、行動をAIによって制御され、ほとんど、他者のことを考えなくても、問題ないと考える時代になっていくのかも知れません(すでに、中国では、信用スコアというシステムによって、それに近い社会を築きつつありますが)。

ただ、自分自身は、それが、いい社会だとは思わないので、できる限り、身近な存在に、本音で付き合える相手がいるのがベストだと思います。

まずは、自分自身を受け入れられるようになれば、他者との依存的な関係を築くことなく、自立した人間同士の付き合いができるので、暮らしやすい世の中になるのではと思います。